深い山と海に囲まれ神仏の霊域と考えられてきた熊野は、急峻な山、鬱蒼とした森林、突き出す巨石や飛沫をあげる滝など、修行の格好の場として、はやくから修行する仏教徒が入り込んできました。
山岳仏教が起こった平安時代には、熊野へ登拝する多くの修行者があらわれ、熊野の霊験が修験者によって高められていきました。やがて上皇や貴族たちは熊野の神仏に憧れるようになり、苦難のみちを越えて熊野へ参詣するようになったのです。
1090年、熊野御幸は白川上皇によって始められました。そのとき、先達として引導したのが天台宗寺門派園城寺(三井寺)の僧、増誉でした。増誉はこの功労によって熊野三山の総裁、熊野三山検校となり、京都に聖護院を建立、熊野三所権現を勧請しました。
増誉の跡を継いだ行尊らの活動によって、寺門派は修験を重視して多くの修験僧を輩出し、熊野を修行道場とする寺門派修験によって熊野修験道が形成されていきました。
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熊野は辺境の地で、難路であったため上皇を始め一般の参詣者にも道案内の先達が必要とされました。こうして熊野に精通した修験僧の先達者たちは、道中の作法や修法の導師となり、俗人の熊野参りの作法にも影響を与えていきました。
熊野修験は、熊野御幸の先達を基盤にして勢力を伸ばし、全国の霊山に先駆けて、先達や御師という参詣組織を全国に築いたのです。 |
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