「上宮」と呼ばれ、紀伊続風土記には境内40間、神体木像なりと書かれており、荘厳な雰囲気のある王子社であったようですが、明治の神社合祀によって取り払われ、現在は杉木立と石碑を残すのみとなっています。
藤原定家の「熊野御幸記」に和歌会が行われたことが書かれています。和歌の会は、熊野詣での作法の一つで「法楽」という神仏の心を慰める意味を持つものでした。
定家は、この和歌会で和歌二首を詠みました。
さしのほるきみをちとせとみ山より
松をそ月のいろにいてける
雲きゆるちさとのはまの月かげは
そらにしぐれてふらぬしらゆき
比曾原王子は1109年の藤原宗忠の中右記には登場しませんが、1201年、定家が書いた熊野御幸記にはひそはらという名前が記されています。
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